林 愛作氏(1873年(明治6年)10月12日-1951年(昭和26年)2月10日)について、個人的に研究しているファンサイトです。 至らぬ点もございますがお気づきの点はご指摘ください。(2018.10.12サイト開設 2020年サーバーurl変更最終更新 2024.1.11 簡単な修正)
明治6年 | 1873年10月12日 | 群馬県生まれ |
明治25年 | 1892年 | 渡米 |
明治33年 | 1900年 | ニューヨーク山中商会入社 |
明治42年 | 1909年8月18日 | 帝国ホテル支配人として着任(1909?1922) |
明治45年 | 1912年 | ジャパン・ツーリスト・ビューロー理事 |
大正2年 | 1913年 | 帝大建築学科 遠藤新を知る |
東京ゴルフ倶楽部設立、理事 | ||
大正5年 | 1916年3月17日 | シカゴでライトと契約書を交わす |
大正6年 | 1917年 | ライトにより林愛作邸(朋来居)設計、竣工 |
? | ? | 桜の会設立 |
大正10年 | 1921年 | フェノロサ「東亜美術史綱」発行 | 大正11年 | 1922年4月16日 | 帝国ホテル初代館全焼 |
? | 4月20日 | 帝国ホテル辞任 |
昭和5年 | 1930年 | 甲子園ホテル竣工、支配人に |
昭和7年頃 | 1932年? | 朋来舎立ち上げ |
昭和17年 | 1942年 | 香港ホテル支配人 |
昭和26年 | 1951年2月10日 | 死去。享年78才 |
クリックすると開きます。
群馬県の裕福な家に生まれる。 12歳頃、父の破産により一家離散。東京下谷の叔父の煙草問屋に小僧として引き取られて働く。 『財界の実力』によればこの頃、軍人が人力車を飛ばして皇居二重橋の前を過ぎるのを見て、人力車の持ち手(梶棒)を押え 「汝軍人にてありながら、二重橋を知らざるか」と大声で叱りつけ、軍人を人力車から降ろした。それを目撃した勝海舟の弟子が勝海舟にこの出来事を話し、 勝海舟は林愛作と面会し、ほめたたえた。 小学校を飛び級するほどの頭脳を持ち、第一高等中学校(The First High Middle School/のちの旧制一高の前身)の予備校で1年半ほど学んだ。 十代半ば頃横浜に行き、旅費を貯めるため日中働きながら夜間に勉強した。このころクリスチャンとなる。1890年代に渡米。 渡米時期について、『財界の実力』では「18歳の時」(数え年)、『帝国ホテルの120年』では「1892年20歳で渡米」、『帝国ホテル物語』では「19歳のとき」、 『帝国ホテル・ライト館の謎』では林愛作のご子息へのインタビューで「15、6才の頃だったはず」とあるが、 『林愛作ノート』の林愛作の手紙の内容、2018年の山口静一氏講演会資料にて「明治 25 年(1892 年、19歳)サンフランシスコに渡る(パスポート発行書には「学術研究のため」とあり、宣教師の推薦と思われる) 。」から、明治25年であると考えられる。
1892(明治25)年、サンフランシスコの日本品店「シバタ」で働きながら、日中働き夜にいくつかの英語の学校に学ぶ。
1894(明治27)年、店を訪れたミス・リチャードソンと出会い、リチャードソン夫人は聡明な青年愛作を東部の学校に進学させようと尽力する。
1896(明治29)年8月サンフランシスコのローエル校(ロウウェル・ハイスクール)の夜学で修辞学と代数、ローマ史、ギリシア史、論理学などを8か月学ぶ。
1897(明治30)年9月リチャードソン夫人の奔走と支援により、マサチューセッツ州ノースフィールドのマウントハーモン校に入学。入学の数か月前にニューヨーク州に出て学費を稼ぐため働く。
1899(明治32)年友人の死からか、不眠症にかかり夏にマウントハーモン校を中退。
(『帝国ホテル100年史』にはウィスコンシン大学へすすんだという記述があるが、ほか資料には見られず、正確な情報不明)
1900(明治33)年ニューヨーク山中商会に入社。美術商としてニューヨーク社交界で活躍し、翌年には山中商会の副支配人となる。
この頃建築家で浮世絵を蒐集していたフランク・ロイド・ライト、ライトの師事していたシルスビー(フェノロサの従兄弟)や、銀行家のグッキンと知り合う。
1907(明治40)年2月、山中商会主催のフェノロサ講演会開催。(林愛作の仕切り)
1908(明治41)年9月お雇い外国人アーネスト・フェノロサがロンドンで客死。仏教徒だった彼の遺骨を日本の寺に埋葬したいというフェノロサの夫人からの依頼で有賀長雄とともに募金活動を行い、
1909(明治42)年遺骨を移送する。
一時帰国し、山中商会本社のある大阪に滞在していた時、帝国ホテル新支配人に日本人を望んだ大倉喜八郎、渋沢栄一(古希を機に会長職からは引退していた)、益田孝らによりスカウトされる。
美術商であり、日本の美術を海外に紹介することを使命と感じ、ニューヨークでの仕事を楽しんでいた林愛作は固辞する。
そこで渋沢らは山中商会側に話をつけ、外堀を埋められ、断ることができない状況になる。
決心した林愛作は、帝国ホテルの全てを一任することを条件に、支配人に就任する。
1909(明治42)年 8月帝国ホテル支配人となる。10月の臨時株主総会議で取締役・常務取締役に就任。取締役を兼ねおった支配人としては、帝国ホテル初。 (帝国ホテル歴代支配人:1890年初代支配人兼会計主任村尾智實、1891年8月チャールズ・S・アーサー支配人、1893年神谷義雄支配人、1902年エミール・フライク支配人の立て直し。 1906年フライク急死、引き継いだ弟カール・フライク急死、1908年のハンス・モーゼル支配人により業績悪化) 帝国ホテルは開業から約20年経ち内装は古びており業績が悪化していたが、大改良を加え、外国人客の満足度を上げた。 外国客のくつろぎの場「公共的一大家庭として」のホテル、また単なる宿泊施設ではなく紳士淑女の交流機関「社交場として」のホテルを提案した。 林愛作の改革とアイデアの具体例 ・設備投資をして室内装飾を一新した(1909?) 自ら食器のデザインなども手掛けた ・伝票を刷新し、経理状況の精度を上げ、浪費を抑えた(1910) ・築地支店(合併した築地メトロポールホテル)を廃止し、売却費用を本館の設備改善にあてた(1910) ・球技(ビリヤード)室を全面改修し、大宴会場の設備を整えた(1910) ・従業員や家族のための共済会をつくった。従業員を一大家族と考え、福利厚生を整えた(1910) ・外国人客が自動車で東京市内を観光できる自動車部を設置した ・ホテル内郵便局を設置し、自らが初代局長になった(当時は公務員の兼任が可能だった)。この郵便局は宿泊客以外の利用もできた(1910) ・広告を強化。「社交とくつろぎ」「皇室関係出資の日本唯一のホテル」という特徴を端的にアピールした ・外国人観光客向けの日本紹介雑誌を帝国ホテルで発行した(1910) ・レストランで提供するパンをホテルの厨房で焼くためのかまどを設置した(1911) ・自営ランドリーを設置し、ホテル内で洗濯を行った(1911) ・クリスマスパーティーを開催した(1913) こうした諸改革によりわずか数年で帝国ホテルを改善し、経営を安定させた。 このころの林愛作は髯をたくわえ常に和装。英語はホテル内でも随一で、無理難題を突き付ける外国人には毅然として対応した。「国粋保存論者」「ハイカラを憎む事蛇蝎の如く」「和魂洋才」と評されている(『財界の実力』)。 自分の意見を曲げない頑固なところもあり、1915(大正4)年には料理長の内海シェフと対立(林は日本特有の料理の味付けを主張、内海が拒否)し、内海は辞職している。 余談として、カレーが日本人によく食べられていることから、林は「やくみに日本風のものを取り入れてはどうか」と提案。福神漬け、花らっきょう、紅ショウガなどがやくみになり、東海道線の食堂列車で取り入れられ全国に広まった。(『甲子園ホテル物語』による。カレーのやくみの起源については諸説ある。)
1910年5月結婚。 林就任以前から新館建設は予定されていたが、1911(明治44)年頃から新館の構想を具体的にたてる。『財界の実力』でもすでに新館の建設予定があることを記されており、新館は日本風の大ホテルになる予定とされている。下田菊太郎に依頼を持ちかけ、設計案が出される。 建築界の重鎮 辰野金吾と敵対していた下田へ国策ホテルである帝国ホテルの設計依頼は難しいということを、林愛作は知らなかった。 帝国ホテル初代館を設計した渡辺譲は現在の東京大学工学部の前身の一つである工部大学校ジョサイア・コンドルの教え子の2期生であり、辰野金吾は1期生である。1888(明治21)年に建てられた兜町の渋沢栄一邸は辰野金吾設計である。 帝国ホテルは新館の用地買収に手間取り、1912(明治45)年7月に明治天皇が崩御、大正に改元されるとそのまま下田への依頼がうやむやにされる。 この年、ホテル業界の代表としてジャパンツーリストビューロー(現在の財団法人日本交通公社およびJTBの前身)の理事に就任している。 1911(明治44)年10月には林愛作のNY時代の旧知グッキンが、帝国ホテル新館設計の話をライトに手紙で送っている。 1913(大正2)年帝国大学建築学科の授業の見学で遠藤新が帝国ホテルを訪れ、遠藤新が林愛作に熱心にライトや新館設計について聞き、印象に残る。 同年、林は日本初のゴルフクラブである東京ゴルフ倶楽部を設立、理事に就任。 1914(大正3)年頃からライトは設計やスケッチのためたびたび来日するようになる。遠藤新は読売紙上で辰野金吾の東京停車場(東京駅)を批判し、下田同様日本建築界の学閥から遠ざかる。 1915(大正4)年12月 林愛作はライトに設計の依頼を正式にするため妻とともに渡米。1916(大正5)年3月17日シカゴにてライトと契約を結ぶ。 しばらくタリアセンのライトの自宅に滞在し、ライトと設計相談をし、新館の草案を作る。 同年11月22臨時株主総会で新館建設が決議され、12月ライトが来日。用地問題や施工技師が決まらず、着工ができない状態となる。 この頃、増築した食堂の欄間の画を、東京芸術大学の学生だった繁岡ケンイチに依頼。繁岡はのちに林自邸の子供部屋の壁画や、駒沢ゴルフ場の全景図など手掛け、帝国ホテル新館設計の意匠部に入る。 →繁岡ケンイチウェブサイト 1917(大正6)年1月8日 遠藤新が林愛作の仲介でライトと面会。遠藤新は明治神宮造営局を辞職し、帝国ホテルにアトリエを構えていたライトに弟子入りする。 ライトにより林愛作邸設計、竣工するとライトは一時帰国し、遠藤新も一緒に渡米する。 同年、林愛作は井下清らとともに渋沢栄一に「桜の会」発足を進言(外国人に桜についてよく聞かれたため、桜について学ぶ会を作ろうという意図から)。財界の賛同を得て、事務局を帝国ホテル内に置き「桜の会」の会合を開き、渋沢栄一が桜の会の会長に推挙される。 1918(大正7)年林愛作がライトに着工の知らせの手紙を送り、10月にライトが来日。また、林はホテル調理場の設計のアドバイザーとして犬丸徹三を迎えるため手紙をかき、翌年1月犬丸は帝国ホテルに着任する。 1919(大正8)年帝国ホテル直営の建築事務所を設立し、技師にミュラー、意匠アシスタントにアントニン・レーモンド、弟子や日本人技師が迎えられ、9月に起工式。動力室から工事を開始する。12月帝国ホテル初代館の裏手にあった別館(1906(明治39)年竣工)が火事で全焼。 1920(大正9)年ライト設計による別館が速やかにで建設されると同時に、新館(ライト館)工事が開始される。当初の予定では新館完成は21年末であり、20年10月には1階が完成するが、この時点で工期も予算もオーバーしている。 1921(大正10)年日本浮世絵協会の理事就任。会長は徳川頼貞。7月27日「フェノロサ東亜美術史綱」発行され、林は刊行に必要な経費すべてを出資。(発行は東京美術学校内フェノロサ氏記念会) 1922(大正11)年1月の重役会で林の権限が縮小される。林との対立で辞職した内海シェフを帝国ホテルに戻すため、異母弟 林英策(帝国ホテル副支配人)を交渉にあたらせる。4月になっても新館は完成に至らず、ライトをかばいつづけた林は経営陣から非難され、立場が危ういものとなる。 1922(大正11)年4月16日初代館で火災が発生。建設中の新館は無事だったが、ギリシャ人1名が犠牲となり、初代館は全焼する。渋沢栄一が駆けつけ、林愛作を慰問した。 4月17日付読売新聞には「和服の裾をからげて中折れ帽を被り夢中になって指揮している林に、記者が声をかけると目には涙がたまっており『万事休すです』と言った。焼死者について林は何も知らなかったようで、記者が伝えるとワーッ泣きだし『客ですか?家の者ですか?附近の家に火が移りはしませんか?』と言った」(要約・一部抜粋)と報じられる。 朝日新聞では「午後5時過ぎ焼け残った別館脇の乱雑に放り出されたトランクや寝台の間にグッタリ身を持たせて拳を握り男泣きに泣いて居た」と報じられる。 4月20日総支配人を引責辞任。7月半ば中央食堂と北客室完成。残りを弟子の遠藤新にまかせ、7月20日にライトは帰国。帰国4、5日前赤坂の菊水でお別れパーティが開かれ、林も参加している。 その後の帝国ホテルは、臨時支配人山口正造ののち、1923年4月犬丸徹三支配人となり 7月、帝国ホテル全館落成。9月1日落成披露宴準備中に関東大震災が発生する。
1926(大正15)年4月 来日したコリングウッド・イングラム(英国の桜研究家)を接待し、荒川提や小金井提に桜を見に行く。4月27日イングラムへ「桜の会」例会で演説を依頼し、林が演説の通訳を行う。 大正末?昭和2年に中央生命保険会社(社長・前田利定)の取締役をつとめるも、傾いた経営を立て直すことができず社業の更新絶望となる。 1927(昭和2)年帝国ホテルが東京会館の経営を引き継ぐことになり、弟林英策が東京会館支配人になる。 同年、サンデー毎日に「理想のホテル」を寄稿する。
1928(昭和3)年頃から、阪神電鉄に呼ばれて甲子園ホテルの計画が始まる。海岸部に建築する予定だったホテルを、武庫大橋を臨む場所に変更させた。設計を遠藤新、強度設計を南信が行い、料理人に帝国ホテル支配人時代の関係者を招致した。 1929(昭和4)年大阪朝日新聞に甲子園ホテルについて、林のインタビューが掲載される。5月頃甲子園ホテルの工事が始まる。 1930(昭和5)年甲子園ホテル開業。支配人として就任。パンフレットには「家庭的なホテルです」と書かれている。 1931(昭和6)年9月経営上の問題で支配人を辞任。11月には弟林英策も東京会館を退職。11月には渋沢栄一が死去する。 (林英策について、1931年『婦女界』の座談会では東京会館支配人 林英作とある) 1932(昭和7)年8月林愛作はライトの自伝を受け取る。ライトあての手紙で「朋来舎」という商店を立ち上げたと書く。 1939(昭和14)年「渋沢栄一伝記資料」の編集者に林愛作の自邸(朋来居)でインタビューを受けている。→ 渋沢栄一伝記デジタル 1942(昭和17)年香港ホテルの支配人となり、香港に渡る。帰国時期不明。戦中鎌倉に疎開する。 1945年10月18日、ライトは友人へ林愛作と遠藤新を探してほしいと手紙をかく。 終戦後の1946(昭和21)年3月と4月に林愛作はライトに手紙を出し、ライト館が一部空襲にあったことや遠藤新が満州で生存していることを伝える。ライトに敗戦国日本の悲惨な状況は伝わっていない。9月28日にライトが手紙で「アメリカに来ることがあったらこちらにいらしてください」と返信。 1947(昭和22)年久保定次郎からの手紙でライトは日本や遠藤新の逼迫した状況を知ると、マッカーサーに手紙と、遠藤新と林愛作に渡してほしいと250ドルずつ小切手を贈る。 遠藤新は師匠のライトの好意を生活のために使うことを許さず、スイス製の時計を4つ買い求め、4人の息子に託した一方、 林愛作は生活費として使ったとされる。また、林愛作はライトからタイプライターや他にいくつか物品も送られている。 1951年2月10日林愛作死去 享年78才。同年6月29日遠藤新死去 享年62才。1959年4月9日ライト死去 享年92歳。 甲子園ホテルは1944年海軍病院に、敗戦後進駐軍に接収され、将校宿舎とクラブとして使われる。1957年日本政府に返還されるが8年間そのままの状態で放置。1965年放置されている建築を武庫川学院の理事長が嘆き、払い下げを受け改修工事を行って学院の教育施設になる。 帝国ホテルライト館は1967年に閉鎖され、68年に取り壊しが終了。正面玄関は博物館明治村に移築された。 林愛作自邸(朋来居)は長らく電通が所有しており「電通八星苑」として使用されていたが2021年6月住友不動産へ売却と報道された。
林愛作は歌人で、数多くの歌をのこしています。 著作権が切れているため林愛作が一度媒体に公開した短歌はいくつか掲載してもいいかなと思い記載しています。問題ございましたらご指摘ください。 山の歌6首 『山を思ふ』掲載 山を思ふ会編集 1915年(大正4年) 心なきひとびとの山のほりするを見て 山のほる人に追われてなく鳥の 声もあはれにひゝく谷底 山のほる人に情けのありやなしや あはれになけよ汝れ時鳥なけ 山をたづねて 八千尋のふかき谷そこ道ゆきて みあくる空に鷲そ翔ふなる 雪の映畫をみて 雪深き千曲の山路くたりゆけは あたり花さく吹雪みたれて 道もなき雪路ひらきてあまたゝひ まろひてはしるすかた雄々しき ふみけかす人なき雪路たとりゆき 天父のしらすにわれかたらはむ 『実業の日本』 御大典記念事業には何が良いか 1928年(昭和3年) 若きうゑそへ 枯れて行く大和心の山ざくら 若きうゑそへ春をまたばや 『まとゐの花 創立十周年記念』 交詢社歌道研究会 1931年(昭和6年) 春雪 子羊のむれいでしよりあわ雪のつもればきゆる那須の牧原 名所若草 梓弓春の光に駒沢のごるふ草原みどりなる (以下春夏秋冬の短歌多数) 『実業の日本』 昭和2年 海邊の朝 何を思不美人ならむ朝潮の しぶきにぬれて沖の方みる
1911(明治44)年発行『財界の実力』は帝国ホテル就任前から就任後の林愛作を記述した資料です。(こちら) 筆者である桑村常之助は林のことを「国粋保存論者」「ハイカラを憎む事蛇蝎の如く」「萬事日本流を以って押し」と評しています。 海外生活の長かった林が日本に戻り、欧米列強に追いつこうと単にみてくれだけ西洋を模倣(ハイカラ)する欧化主義の日本人を 嘆かわしく思っていたことは想像に難くないです。1914(大正3)年『実業の世界』への林の寄稿文では 「日本製で買えるものは決して外国のものは買わない。現今は東京人でも地方人でも一般の生活振りがハイカラで、一も二もなく外国製のものを着たり食ったりしている。一方輸入超過は亡国の微などと騒いでいるのに他方では舶来物を頻りに購入しているという矛盾の状態は何と滑稽ではないか。帝国ホテルの経営上に於いても極力舶来物を斥けている」と書いています。 美術商として日本美術および日本の歴史に精通していなければ、米国社交界の信頼は得られません。このころの林は常に和装であり、明治天皇を尊敬していました。 林が勝海舟と面会したという記述について信憑性がどの程度あるのか定かでないですが、林愛作は勝海舟の思想に影響を受けている点も見受けられます。勝海舟はもともと「開国し貿易で外貨を稼ぎ日本の国力を高めるべき」という意見書をもっており、林はこの考えに触れた可能性はあります。渡米し山中商会で美術商として美術品を顧客に紹介したことは外貨を獲得し、日本に寄与する目的もあったと思われます。 日露戦争前後の明治末期には、脱欧化主義、ナショナリズムを刺激する文章が好まれていました。桑村常之助の国粋主義的な文章は、当時の世が求めていた帝国ホテル支配人・林愛作像を描いている点で興味深いです。 財界の実力 林愛作部分を全文引用 文字起こし(文字が読み取りづらいので文字起こししましたが、公開に問題あればご指摘ください。誤字あればご指摘ください…) 帝国ホテル 林愛作 館林の在に生れ、家は相應に資産ありしも、十二歳の折り、父は商売上の手違いの為め、家内離散の悲境に陥り彼れは當時東京下谷にありて煙草業を營める叔父の家に小僧として引き取らる、昨日迄のお坊ちやんは今日六十斤入りの煙草の箱を背負ひ日々日本橋箱崎町の問屋に至り煙草を仕入れて更に之を賣り歩きたり、斯して五歩に一息き、十歩に一休み、いたいけなる小僧の姿は前後四年の間、風雨寒暑の別なく、心ある者の袖を搾らしめぬ。 然れども此小僧は尋常平凡にあらざりき、一日箱を擔ひて二重橋の前を過ぎて、小供心にも崇高の念に打れし際、一軍人が車を飛して其前を過るを見て、大いに憤りて其梶棒を押え、勵聲一番、汝軍人にてありながら、二重橋を知らざるかと叱咤し、遂に其軍人をして車より下らしむ、時に勝海舟翁の門生之れを傍観し、此事を翁に語る、翁?に於いて彼れを招き其氣概を激賞したりと云へり、十六歳にして横濱に出で晝は働き夜は學び、辛うじて旅費を貯へ、十八歳の時豚と共に船艙に積込まれて米國に航せり。 米國にては労働に服するの傍ら漸く中學程度の學校を卒り、職を求めて諸方に流浪したるも未だ嘗て何事をもなさずして一日の光陰を空費したることなし。 明治三十年紐育に出で、初めて山中商會に入る、其米國の事情に通ぜると、美術上に鋭敏なる鑑識を有し、且つ頭脳明快なるを以て漸く重用せされ翌年直其副支配人となれり、爾来一昨年に至るまで十餘年の彼れの歳月は一に山中商會に費され、終に同商會をして今日の盛運に達するを得せしめたり。 明治四十二年取引の用務を帯びて歸朝するや、當時帝國ホテルは支配人の死亡に遇ひ、株主一同其人選に苦心せる際とて、益田孝は先づ彼れに着目して之れを大倉喜八郎に薦めて終いに其支配人たらしむ。 山中商會の敏腕家はホテル経営者としても毫も見劣りする事なかりき、彼れ一度び其支配人となるや、大に其營業方針を改めたるの結果、一時殆ど無配當の姿なりしホテルをして年々八分の配当をなすを得せしめ、室内の装飾、旅客の待遇等に大改良を加へ、大に外客の満足を買へり、 長脇差の上州に生れたるが、故か永く米國にありたるに拘はらず、極端なる国粋保存論者にしてハイカラを憎む事蛇蝎の如く、萬事日本流を以て押し通さんとし、早晩内務省の官舎の跡に日本風の大ホテルを建設せんと力味返へれり、和魂洋才とでも云ふべきか。 国立国会図書館デジタルコレクションより http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/777918 財界の実力 桑村常之助 著 明44.10 金桜堂 明44.4.15?8.20夕刊やまと新聞に掲載したものをまとめて出版
帝国ホテルライト館 1923年7月 | 甲子園ホテル 1930年4月 |
電気ホテル | 西の帝国ホテル |
フランク・ロイド・ライト | 遠藤新 |
外国人客・国賓を想定 | 日本人客を想定 |
大都市ホテル | リゾートホテル |
鉄筋コンクリート造 | 鉄筋コンクリート造 |
大谷石(栃木県) | 日華石(石川県) |
内容は執筆中(スミマセン)
年譜本文の内容は上記文献から孫引き部分もあります。